人間らしさとは

人間らしさとは何だろう、と最近よく考える。

 

昔は特に意識していなかったが、AIの発達に伴って人間の仕事が自動化されることがさまざまな領域で懸念されている今、機械にはできないこと、人間にしかできないこととは何か、疑問に思うことが多々ある。

 

人間観の変遷

人間は本来、すべての仕事を自分たちの手でやってきた。その多くは肉体労働だった。狩りをしたり、穀物を栽培したり、服を編んだり、家を建てたりなどだ。その時代は、このような肉体労働が人間らしさだったのかもしれない。人間はほかの動物と違って、二足歩行であり、他の指と向き合う親指から生まれる器用さに恵まれて、様々なタスクを上手にこなすことができた。機械の存在しなかった時代において、他の動物に比べると、人間の行いはすべて人間らしかった。

 

18世紀の産業革命では、様々な仕事が機械に代替され、多くの労働者が職を失った。機械化はその後もどんどん進み、多くの肉体的な単純労働は機械によってとってかわられた。ブルーカラーの仕事もいまだに存在するが、その多くは機械の助けによって人間への負担が軽減されており、少ない人数でより効率的な仕事ができるようになっている。それに反比例するようにして、より知的な能力が求められる仕事が数を増やしていった。大学を卒業して専門知識を身に着けた人材は重宝され、知識を生かして機械を操作したり、機械にはできない複雑な仕事に就いた。パソコンが普及すると、ホワイトカラーの職が急激に増え、多くの人がオフィスでデスクワークをするという形が一般的になった。このように、技術が発展するにつれ、人間らしさとは、より知的な面にシフトしていった。機械にはできないある程度の複雑さを伴うタスクに対しては、人間の思考力をもってしか対処できない。

 

それは今変わろうとしている。ディープラーニングの発明によってAI技術は急速に発達し、今まで知的と思われていた様々な分野で人間を超える性能を発揮し始めた。すでにチェスや将棋では機械が人間の世界チャンピオンを破っているし、少し前には機械には不可能と思われていた囲碁で、Google DeepMind の AlphaGo が世界チャンピオンのイ・セドルを圧倒して話題になった。べつに棋士たちが知的でないとか非人間的だと言いたいわけではないが、少なくともこれらのボードゲームは人間にしかできない、真に人間らしいことではないとはいえる。また自動運転技術は、以前までは高い技術と認識力が必要で自動化は無理と考えられていたが、実用化がもうすぐのところまで来ている。人間の不注意さや不正確さがない分、すでに自動運転車は非常に低い事故率を達成しており、この分野においてはAIは人間を超えているといえる。

 

AIと「人間らしさ」

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AIは人間性をも代替しうるか?

 

ではAIは人間よりも賢くて、人間に残された仕事はないのか。そんなことは全くない。現在AIが人間を超える性能を持っているのはある一定の限られた条件下のタスクだけで、人間のような様々な環境の変化に対処できる柔軟性はない。DeepMindが開発した、アタリのブレークアウトをプレイするAIアルゴリズムは、超人的な性能を見せるが、パドルの位置を少し変えるだけで学習しなおしになってしまう。人間であれば学習するまでもなくその程度の変化には適応できるのに、現在のAIにはそのような柔軟性がない。

 

また、AIは意味を全く理解しない。「中国語の部屋」と同じで、一見知的なふるまいをするように見えるが、AI自体は我々が言うことの意味を何も理解していないのだ。結局機械学習は統計でしかなく、膨大なデータからもっともらしい答えを学習しているだけだ。「東ロボ」の愛称で知られる「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトでは、AIに150億の英文を覚えさせたにもかかわらず、センター模試の英語で偏差値50を少し超えた程度である。*1われわれ人間は単語の意味と文法さえ覚えれば英語は読めるというのに。

 

そしてAIの最大の弱点の一つに、常識が全くないという点がある。最近話題になったOpenAIのGPT-2というAIプログラムは、40GBのインターネットのデータから学習し、人間と見分けがつかないような流暢で意味の通った文章を書ける。そのあまりの性能から、技術の悪用を恐れたOpenAIがAIモデルの公開を自主規制したほどだ。それでもAIには常識がないから、「fires happening under water」のような常識的に不可能なことを平気で書いたりする。*2人間ならだれもが持ってる常識だが、AIに教えようとするとその知識量が膨大であることがわかり、今のところ成功していない。

 

このように、AIにはできることとできないことがある。では、どのような仕事が自動化されるのだろうか。オックスフォード大のOsborne教授らはアメリカの702の職種を調査し、自動化の確率を計算したところ、47%の仕事が70%以上の確率で近い将来機械化されることが明らかになった。特にオフィスワークや生産、輸送の仕事がリスクが高いという結果が出た。対して、教育や技術、経営などの職種は自動化のリスクが小さい。*3

 

自動化の可能性が低い仕事の特徴として、Osborne教授は認識力、創造性、社会性を挙げる。意味を理解、状況を認識して柔軟に行動する能力、自由に新しいものを想像する能力、人の感情を読み取って交流する能力は、どれも現在のAIに欠けており、近い将来にも実現されないであろう能力だ。

 

自分はこれらの能力が、現代における「人間らしさ」だと思う。人間は機械やほかの動物にない、高い能力を持ち合わせている。ただひたすら知識をため込むことはAIにもできる。人間にしかできない柔軟で創造的な思考力を身に着けてこそ、人間らしく生きられると考える。

 

不動の「人間らしさ」

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哲学は、おそらく人間しかしない

 

では、そのような能力さえ機械が習得してしまったとしたら?今まで人間の能力から人間らしさについて考えてきたが、どんなに能力の高い存在ですら代替できない、不動の人間らしさというものはあるのだろうか?

 

高校の倫理の教科書*4を覗くと、いくつかの哲学者による「人間の定義」が紹介されている。もっとも有名なのは「ホモ・サピエンス」(英知人)。人間は高い知性を持つ存在として定義されている。しかし、これは人間の能力に目を向けたものであり、機械が人間以上の能力を身に着ける可能性は、今のところ低いとはいえ、否定もできないため不安定な定義だ。

 

ほかにも「ホモ・ファーベル」(工作人)や「アニマル・シンボリクム」(象徴的動物)などの能力に注目した定義があるが、それはすべてこれから覆される可能性がある。

 

では、能力ではない人間の一面に目を向けるとどうだろう。歴史学者ホイジンガは人間を「ホモ・ルーデンス」(遊戯人)と名付けた。これはなかなか面白く独特な見方だと思う。人間は遊びの中から文化を創造し、創造的な仕事を生む。そして何よりも人間は遊びの中に幸せを見出し、それは生活を楽しいものにしてくれる。AIに遊びたいという欲求があるとは思えないし、遊びは人間特有の特徴かもしれない。

 

なぜAIは遊ぼうと思わないのか。遊びの目的の一つは休息であるが、AIは休息する欲求すらない。なぜなら、機械の身体が人間の身体よりも強靭であることはもちろんのことだが、AIは生物ではないため、自己を保存し繁殖して自らの遺伝子を次世代に受け継ぐという生物の本質的な目的がないからだ。AIが意識を持ったとしても、AIは働き続けるだろう。自分が壊れても、自分と全く同じプログラムで動くコピーがたくさんいる。だから自己を保存する必要は全くない。それに対して人間は、他の動物と比べ物にならない高い知性を持つとはいえ、結局のところ生物だ。人間の本能的な欲求は、生物としての側面に基づいている。だから遊びは、高度な知性に基づいているものの、本来の目的は非常に動物的であるという二面性を抱えている。ただ頭のいいだけのAIには、遊びは理解できないだろう。知的存在と動物の間の存在としての人間は、決して変わることのない「人間らしさ」かもしれない。

 

「ホモ・レリギオースス」(宗教人)という定義もある。人間は宗教という文化を持ち、人間を超えた存在にまなざしを向ける。そして、今俺がそうしているように、人間はどこから来て、どこへ行くのかという本質的な疑問を抱えている。

 

宗教の正当性や神の存在については以前書いた*5が、自分は今のところ無宗教、無神論者だ。しかし、そのような本質的な問いを抱えているという点では、ほとんどの人類に共通しているのではないか。これらの答えられない問いに答えを提供するために、いくつかの人は宗教を信じるようになった。俺のように神が信じられない人は、理性の力によって答えを見つけ出そうとしてきた。自らの存在の答えを知ろうとする努力は、いつまでも続くだろう。

 

AIは自分の存在について疑問を持つことが絶対にない。AIは誰によって作り出されたか?人間。目的は?生産を手助けするため。このような調子で、人間によって作り出されたAIに対しては、答えが用意されている。AIが人間と違う目的を持つようになり、人間に反抗するようになったとしても、作り出された目的というのは決まっていて、それから哲学的な議論が生まれることはないだろう。

 

このように、人間とは何か、どこから来て、どこへ向かうのかという自らの存在について疑問を持つであろう存在は、人間しかいない。この答えを探る活動は、きわめて人間的といえる。

 

最後に考えてみたいのは、パスカルの「中間者」としての人間だ。人間は悲惨さと偉大さを掛け持ち、無限大と無限小の中間に存在するとパスカルは言った。人間はしばしば間違った行動に走り、不幸で悲惨な存在だ。それでいて、自分が悲惨であることを自覚しているところに人間の尊厳がある。「人間は考える葦である」という言葉に、この人間観は集約されている。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

パスカル「パンセ」

 

AIにそのような自覚が可能か?そもそもAIが自分は悲惨な存在だと考えることはないように思える。AIははっきりした目的意識を持ち、何事も正確にこなし、間違いを犯すことはほとんどないだろう。間違いを犯しても、人間のように知性の制約が(おそらくは)ないAIにとって、自分が悲惨な存在だと思う前に、学習して次はできるようにしようという冷淡で機械的な意識が先行すると想像する。だから生物としての存在から逃れられない人間にしか、自らの悲惨さを自覚することはないのではないか。これはソクラテスの「無知の知」につながるところがある。

 

これらの人間観から、俺は不動の「人間らしさ」とは、生物最高の知性を誇りつつ、生物としての制約から逃れられない人間、知的存在と動物の中間に位置する人間が、自らの存在について問い続け、独自の文化を創造していくことだと思う。生物でないAIには、これらのことはまねができない。AIに決してできないという意味で、これらの活動はきわめて人間らしいと思う。人間に限界があると考えるのは少し悲しいが、制約の中で苦しみながら自分の意味を探していく、そんな人間観が俺は好きだ。

 

(2020/6/15追記)

以下の記事では人間らしさについて別の方向から考察している。

randomthoughts.hatenablog.com

 

*1:新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』 東洋経済新報社, 2018.

*2:"Better Language Models
and Their Implications" OpenAI Blog, 2019. https://openai.com/blog/better-language-models

*3:Carl Benedikt Frey and Micheal A. Osborne "The Future of Employment: How Susceptible Are Jobs to Computerisation?" Oxford University, 2013. https://www.oxfordmartin.ox.ac.uk/downloads/academic/The_Future_of_Employment.pdf

*4:『倫理』 数研出版, 2016.

*5:

randomthoughts.hatenablog.com

randomthoughts.hatenablog.com