死についての考察

「すべてがFになる」を読んで、「死」について考えてみたが、書いてみたらとても長く重い話になったので、別の記事にすることにした。

randomthoughts.hatenablog.com


先に断っておくが、これから書く内容はものすごく暗いけど、別に俺に自殺願望はない。ただ「死」についてできるだけ論理的に考察したいだけ。

俺の思考の記録としてこの記事を残しておくが、暗い話を読みたくないなら読まなくていいです。当たり前か。


真賀田四季は言う。

死を恐れている人はいません。死に至る生を恐れているのよ。苦しまないで死ねるのなら、誰も死を恐れないでしょう?そもそも、生きていることの方が異常なのです。

死ぬことが、眠りに落ちて、そのまま目が覚めないだけのことならば、それは確かに恐れるべき対象ではないし、むしろ心地よいものなのかもしれない。生きていれば楽しいこともつらいこともあるが、死んでしまえば何も感じない。絶対に苦しむことはない。

それでいて、俺は死に抵抗がある。なぜだろうか?それは多分、何もせずに死にたくないということなのだろう。俺はまだこの人生で何も成し遂げていない。せっかくこの世界に生まれてきたのだから、何か歴史に、小さくてもいいから名を残すようなことをしない限り、死にたくない。それはなぜか。それは後世の人に俺が存在したことを知ってほしいからかもしれない。しかし死んでしまえばそんなこと知りようもないし、知ろうとも思うことができない。あるいは、死に際に「俺は何もしてこなかった」と後悔したくないからかもしれない。それは結局、「死に至る生」を恐れていることになる。感情的に苦しみながら死にたくないだけかもしれない。

そもそも、生きることは生物の本能的な欲求である。しかし、だからといって生きることが正しいことになるとは限らない。生きようとする個体だけが生き残るからだ。仮に「死ぬことは喜ばしいことである」ということが真実であったとして、その真実に気付いた種が自ら命を絶ったとしたら、その種の遺伝子は保存されない。生に執着する生物は、それが真実であるかどうかに関わらず、その子孫を残すことになる。

世界が存在することは異常だ。世界が無かったら、無いだけの話であり、ある必要はない。世界がある必要がないのに、世界があるのは、オッカムの剃刀に反している。だから異常だと思う。同様に、生きていることも異常だとおもう。もともと生命が存在する必要はない。あったところで何の意味がある?そもそも意味を求めるのがおかしいのかもしれない。世界も生命も、ある。それは事実であり、それに意味はない。

そもそも、世界はそれを経験する主体がいて初めて存在しうるのであり、「俺の世界」は俺が生まれた時に始めて創造された。俺が死ねば、「俺の世界」は終焉を迎え、何もなくなる。何もないというのは、物事のあるべき最もシンプルな状態であり、ある意味理想郷であると言えるかもしれない。俺が死んでも、世界は正常に動作し、ほかの人の世界は残るのかもしれない。しかし死んだら俺はそれらを経験することができないので、俺にとっては世界は終わり、何もなくなるのである。経験できなければ何が起ころうと無意味だ。

今から書くことはもしかしたら非常識的で道徳的に間違っていることかもしれないけど、死ぬこともそんなに悪いことじゃないのかなと思う。別にみんな死ぬべきといっているわけではないが、べつに死ぬことは、そこまで忌み嫌うべきものでもないんじゃないかな。「命が何よりも大事」とは使い古された言葉で、倫理的に正しい命題だと世間一般では認識されているのかもしれないが、無条件にそれを認めるのは思考停止であるような気がする。俺は身近な人の死を経験したことがないので、何も知らないやつは黙っていろと言われるかもしれない。ちゃんと考えて、それでもそれが正しいことだというのなら、俺が間違っているのかもしれない。確かに、人が死ぬのは悲しいことである。家族や友達が死んだら俺は悲しいし、死んでほしくない。しかし、それは残された人々の感情であって、死んだ本人の世界は終わっており、そこに苦しみや悲しみはない。

これも間違っていることかもしれないけど、そう考えると、生きることが苦しみでしかないとき、自らの命を絶つことも間違いではないんじゃないかな。もちろんそれは不可逆的な決断だから、ちょっと嫌なことがあったからって自殺するのは論外である。でも、もう回復の見込みがないくらい苦しんでいるならば、それはありなのかもしれない。安楽死制度が許されるのなら、それと何が違う?回復のチャンスはゼロではないんだから、最後まで頑張るべきという人もいるかもしれない。しかしそれでは、じゃあ君、彼にチャンスを提供できるの?ってなるし、そんなこと言ったら回復の見込みのない患者だって、明日医学でブレークスルーがあってどんな難病も治療できるようになるチャンスだってゼロではないんだから、安楽死制度はダメになる。

でもこの論理の穴は、その回復の見込みのあるなしが主観的な基準で決まるということなんだな。これも部外者は口出すなとなりそうだが、例えばいじめで自殺する人のニュースをよく聞く。しかしいじめっていうのは環境を変えればなくなるかもしれないし、いろいろ解決策はあると思うんだ。いじめがなくなったとしても被害者の心に大きな傷がずっと残るのは確かなんだろうけど、それのせいでそれから一生楽しい経験ができなくなるなんてことはないだろう。部外者から言わせてもらえば、いじめっていうのは回復のチャンスが十分あることなんだと思う。でも絶望の中にある人に理性的な判断をすることは難しいかもしれないし、それでもう駄目だと決めつけて自らの命を絶つっていうことがあるのかもしれない。それはいけない気がする。

でもそれはなぜいけないのか?自分でだめだと思ったら、それでいいのではないか?というのも、その本人の世界はその人のものなのだから、誰にも干渉する権利はないし、自分が終わらせたいと思ったら、終わらせてもいいのかもしれない。世界が終わったら、その判断を下したことに対して自分が後悔したりすることはないし、誰も自分の世界で自分を責めることはできない。

何が正しいのかますますわからなくなってきた。

真賀田四季は答えを知っているようだが、俺は答えがわからないので、生きることにする。どうあがこうと結局いつか死ぬんだから、生きられるうちに生きておくことにする。死ぬ直前まで、答えはわからない気がする。死んでもわからないかもしれない。死んだら考えることはできない。生きている異常さを楽しみたい。