集団的無意識に対する闘争―村上春樹「1Q84」を読んで

村上春樹の長編小説「1Q84」を読んだ。最近小説を読んでなかったので、何かちゃんとしたものが読みたいと思っていたときに、古本屋でたまたまこの本を目にした。有名で題名は聞いたことがあったので読んでみようと思い、全6巻のうち最初の本を試しに買ってみた。なかなか深く考えさせる小説だったので、自分の思ったことを書いてみる。あらすじは省略するが、ネタバレを少々含んでいるので、これから読もうと思っている人はまず先に本を読んでください。

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)

  • 作者:春樹, 村上
  • 発売日: 2012/03/28
  • メディア: ペーパーバック


1Q84は、ミステリーであり、ラブストーリーでもある。物語がかなり複雑で、今まで読んだこともないようなものだったので、これがどのような話なのか説明することが自分には難しい。この物語では、2人の主人公、天吾と青豆のストーリーが同時並行で交互に描かれている。最初この2つのストーリーは全く別々のものに見えるが、徐々につながりが見え始め、最終的には一つの物語に収束する。1984年に住む、一見無関係な男女2人が、20年前に接点があることが徐々に明らかになり、また2人が謎の「1Q84年」の世界に迷い込んでいることもだんだんわかってくる。そして1Q84年に存在する宗教集団「さきがけ」が、お互いの気づかないところで2人に深く関与してき始め、一つの壮大な物語となる。この、渦巻きが回転しながらゆっくりと中心に物を引き寄せるような物語の展開に一度はまってしまうと、続きが気になって仕方なくなってしまう。長い物語だが、時間を忘れて読んだ。

この物語には謎が多い。謎が謎を呼ぶ展開である。天吾の母親は誰なのか、父親はなぜ死んだのか?天吾のガールフレンドはなぜいなくなったのか?さきがけのリーダーとその娘ふかえりはいったい何者なのか?レシヴァとパシヴァは何を意味するのか?「声」、空気さなぎ、マザとドウタ、リトル・ピープルとは一体何なのか?牛河の髪の毛を混ぜて作った空気さなぎからは何が生まれるのか?青豆と牛河のドアをノックしたNHKの集金人の正体は?青豆はどうやって妊娠し、そこからは何が生まれるのか?謎は挙げるときりがない…。これらの謎がすべて解決されることを期待して最終巻を手に取ったが、半分くらい読んだところで、残りの分量で本当にすべてが解決するのか?と怪しくなってきた。そして結局最後まで謎は解かれなかった。本文の言葉を借りれば、「疑問符のプール」に残されたまま、俺は今この記事を書いている。


村上春樹は、この物語で何を描きたかったのだろうか?ただ男女が20年の時を経て再び結ばれるという程度のありふれた恋愛小説を書くために、わざわざこんな遠回りをしたりしないだろう。ここには何らかの意味やシンボリズムがあるはずだ。そうでなければ、さきがけや空気さなぎという最後まで謎に包まれた存在を登場させて、読者を読後ももやもやさせるようなことをするということはしないだろう。多分、この本は純粋に物語を楽しむ類の本ではない。物語はとても面白く、よくこんな入り組んだ展開を思いつくものだなあと深く感心したが、納得いかない終わり方からして、絶対何かもっと深い意味がある。それはいったい何だろう?

物語を通じて登場する、リトル・ピープルについて考えてみる。リトル・ピープルの実態は最後まで明らかにされないが、そもそも実体なんてないのかもしれない。それは、太古の昔から人間とともにあり、我々の見えないところで世界を支配してきたと物語の中では説明されている。このことが、Book 3でタマルが話していたカール・ユングの「集合的無意識」と自分の中でつながった。集合的無意識とは、全人類が無意識のうちに共有している、先天的な概念のことである。ユングは、様々な民族の宗教や神話には共通したイメージがあることに気づき、その普遍的な意識を集合的無意識と名付けた。宗教、神話?1Q84の主要なテーマの一つは宗教だ。宗教集団さきがけは、この物語で中心的な役割を果たす。リトル・ピープルは我々の無意識の中に存在し、さきがけはその集合的無意識が作り出したものだということだろうか。

そう仮定すると、いろいろなことの説明がつく。リトル・ピープルとは善でも悪でもないとリーダーは言ったが、集合的無意識も善でも悪でもない。人間は悪意も善意も共有しており、善悪を一概に判断することはできないからだ。そして「声を聴く」とはその集合的無意識の中にある人間の根源的な衝動を理解することであり、それをパシヴァが知覚してレシヴァが広めることで、人々を心から服従させることができるのかもしれない。宗教は人間の集合的無意識にアクセスすることによって信仰を植え付ける。またカリスマ的指導者も国民の不満をあおったりして根源的な欲求を満たし、多くの人々を支配下に置く。だからこそさきがけのリーダーはそのような強力な宗教体系を築き上げることができたのだろうし、天吾が書いた「空気さなぎ」は大ヒットとなったのだろう。そしてマザとドウタとは、意識と無意識のことかもしれない。マザが本体でレシヴァであり、ドウタは「心の影」でパシヴァである。無意識が根源的な感覚を知覚し、意識がそれを受けれるという構造は理解できる。ドウタは、無意識が独り歩きを始めた状態ともいえる。宗教が人々の意識を支配し、無意識の力が強くなりすぎてカルトになると、このようなことが起こり始めるのかもしれない。

それでは、リトル・ピープルに対抗していた青豆と天吾、ふかえりはどのような意味を持つのだろうか。集合の反対は個人で、無意識の反対は当然意識だから、個人の意識的な働きかけによって、集団の無意識による圧力に対抗しようということだと思う。青豆と天吾は、お互いに会いたいという非常に個人的な動機から、集団的無意識が支配する1Q84年において様々な困難を乗り越えてきた。そして青豆と天吾はどちらも、昔から孤独で、集団と深く交わることがなかった。だからこそ、彼らにはリトル・ピープルに対抗する素質があったのかもしれない。


このことによってすべての謎が解けるわけではないし、細かい設定は覚えていないから間違っているところもあるだろう。そしてもっと深く考えていける余地がある。しかしとりあえず、自分の中で一つの解釈が出来上がった。1Q84のテーマは意識対無意識、個人対集団である。村上春樹によると、執筆の背景にはオウム真理教の事件や9・11テロがあるそうだから、俺の解釈はあながち間違っていないかもしれない。集団的無意識から発生する宗教が道を誤って過激なカルトとなることへの危機感と、それに対する個人の力による抵抗を描きたかったのかもしれない。

それにしても実に面白く、深い小説であった。本が終わるまでは、読者を飽きさせない物語の展開にどんどん吸い込まれていき、大いに楽しんだ。本が終わってからは、解かれなかった謎の意味を考え、著者のメッセージを読み解こうとした。こんな物語が書ける村上春樹の力量に深く感服するとともに、彼の他の作品も読んでみたいと思った。