私たちの住む宇宙① 真実にたどり着く方法

世界は何でできているのか?宇宙はどのように誕生し、これからどうなるのか?生命、人間はどこから来たのか?神は存在するか?意識と自由意志は存在するか?私たちはどのように生きればいいのか?これらの疑問は、人間の最も根源にある問いで、誰もが一度は問うたことのある疑問だろう。これらの問題に対しては、物理学、数学、生物学、脳科学、哲学などの学問や、キリスト教や仏教といった宗教が答えを求めるために努力を重ねてきた。ある程度の答えが見つかった問いもあれば、様々な考えがあって共通の意見というものがいまだに存在しないものも多くある。

"The Big Picture: On the Origins of Life, Meaning, and the Universe Itself"(邦題:「この宇宙の片隅に ―宇宙の始まりから生命の意味を考える50章―」)という本の中で、カリフォルニア工科大学物理学教授のSean Carrollはこれらの問題に対して科学の観点から立ち向かう。現代物理学で我々の宇宙の構造について明らかになったことをもとに、我々の最も基本的な問いに論理的で客観的な洞察をもたらそうという試んでいる。この本を読んで、俺は世界の抽象的な構造についての理解を深めることができ、様々な難問に対して一つの説得力のある解釈を知ることができた。世界を正しく理解するうえで重要な知見を得られる本なので、学んだことや考えたことを共有したいと思う。

書くことが多いのでこれから何回かに分けて記事を書く。初回では、世界の真実を知るために必要な態度と、現在最も真実に近いと思われる世界観について考察する。

ベイズ推定―真実にたどり着く方法

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ベイズ推定を使うことで、誰がリンゴを盗んだか調べることができる

ベイズの定理というものがある。これは、事象A(原因)とB(結果)があったときに、Bに基づいてAの正しさを評価することのできる数学の定理である。Aが正しいと思われる確率P(A)と、Bが起こる確率P(B)と、もしAが正しいとしたらBが起こる確率P(B|A)を知っていれば、Bという事実が観測されたときにAの正しさP(A|B)がどのように変わるかを計算で求めることができる。数式の証明自体は基本的な高校数学のレベルで理解できるシンプルなものだが、その式が意味するものは、確率についての考え方を大きく変えた。ベイズの定理を用いたベイズ推定という手法は、観測事実に基づいてその原因となる事象を確率的に検討することにより、世界なさまざまな事象の正しさを評価する強力な手法として、AIなどにも用いられている。

例えば、「そうたがリンゴを盗んだ」という命題Aの真偽を検討したいとしよう。そうたのごみ箱からリンゴの芯が見つかったという事実をBとするとき、このことは「そうたがリンゴを盗んだ」という命題が正しい確率P(A|B)を高める。なぜなら、そうたがリンゴを盗んだと仮定したなら彼ががそれを食べた後にごみ箱に捨てる可能性は高い。しかしそうたがリンゴを盗んでいないと仮定したなら、彼がが自分で買ったリンゴを食べて捨てたかもしれないが、ごみ箱にリンゴがある確率は盗んだと仮定したときよりも低い。つまり、P(B)(リンゴがごみ箱から見つかる確率)はP(B|A)(そうたがリンゴを盗んだとき、リンゴがごみ箱から見つかる確率)よりも低い。ベイズの定理の式によると、P(B) < P(B|A)のとき、P(A|B) > P(A)(日本語で言うと、リンゴがごみ箱から見つかったという事実に基づけば、そうたがリンゴを盗んだ確率は以前より高くなる)である。「そうたがリンゴを盗んだ」と仮定したほうが、そうたのごみ箱にリンゴが捨ててあったという事実をうまく説明できるから、そうたがリンゴを盗んだ可能性は高くなるのである。このように、観測された事実から、我々の考えを更新していくことがベイズ推定である。

ある考え方の正しさとは、それが正しいか正しくないかという二者択一の絶対的なものではなく、他の考え方に比べてどれほど世界をよりよく説明できるかという相対的で曖昧なものである。そしてそれは、確率で表すと都合がいい。そうすれば、ベイズ推定を用いることによって、新たな知見が得られるたびに様々な考え方の正しさを比較、吟味し、より真実に近いと思われるアイデアを選ぶことができる。ある考え方が予想する結果と観測された事実を照らし合わせることによって、その考え方の正しさを吟味することができるのである。我々も、世界を理解するうえでベイズ推定を用いるべきである。新しい事実が観測されるたびに、世界を理解する枠組みを更新していくことで、真実に近づいていくことができる

ところで、ベイズ推定における確率P(A|B)の値は、我々が最初に仮定する事前確率P(A)の値に依存する。何も証拠がない状態で、「そうたがリンゴを盗んだ」ということがどれほど怪しいかという確率が事前確率である。事前確率は主観的な任意の値だが、十分なデータがあれば、更新された確率はいずれ一つの値に収束する。もしそうたがリンゴを盗んだということの正しさが50%だと思っても、75%だと思っても、10%だと思っても、そうたがリンゴを盗んだ証拠が多く見つかれば確率は例えば80%のような高い値にいずれ近づく。しかし事前確率が100%か0%だと話は別である。もし絶対にそうたがリンゴを盗んだと信じるのであれば(100%)、そうたの潔白を示す証拠がいくら見つかってもその確率は100%から変わることはない。またはそうたは絶対に何があってもそんなことはしないと信じるのであれば(0%)、そうたが自白したとしてもその信念は曲げられることがない。つまり言いたいのは、世界の真実に近づきたければ、何か一定の価値観を絶対的に信じる、つまり0%か100%の事前確率を仮定するということをしてはいけない。どんなにある価値観が魅力的に見えても、何か別の事実が見つかればそれに応じて自分の信条を更新していく柔軟さが必要だ。

詩的自然主義―世界の階層構造

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詩に多様な解釈があるように、宇宙にもさまざまな解釈がある

科学というのは真実を知るうえでとても重要な方法の一つである。科学では身の回りの事象を観察してその根底にある法則について予想を立て、実験を通じて仮説をテストしていく。そうして確かめられた理論が世界をよりよく説明しうるものであれば、それは正しいと認められ、受け入れられるようになる。ニュートンは実験によって運動方程式を導き、それを用いて様々な物体の運動を驚くべき精度で説明することができたので、彼の理論は広く受け入れられ物理学の基礎となっている。

しかし、科学では常に古いアイデアは新しいアイデアにとって代わられる。かつて科学者は光はエーテルという媒質によって伝わると考えていたが、現在では光速が絶対であるとするアインシュタインの相対性理論によってエーテルの存在は否定されている。このようなアイデアの入れ替わりが科学では常に起こっている。科学理論は絶対的な真実ではなく、否定されうるものであるが、この特徴こそが科学をとても強力な理論体系にしうるものである。例えば「神は存在する」というような命題は否定も肯定もすることのできないものであるから、これが真実であるかどうか客観的に調べることができない。しかし科学では、古い考えを新しい強力な理論に置き換えることを繰り返していくことで、真実に近づくことができる。否定される余地があるからこそ、説得力を増すのである。

科学は世界の事象を説明し、予測することのできる強力な体系だ。科学の正しさを裏付ける事実はいくつも見つかっているから、ベイズ推定によると科学の正しさは極めて高い。宗教も同じように世界を説明する体系であるが、現実世界との矛盾や、実証不可能な命題がいくつもあるため、それが真実に一番近いとは言えない。よって、世界を科学的に分析することが、より正しい理解をもたらしてくれそうである。

世界を科学の視点から理解する枠組みの一つに、自然主義(Naturalism)というのがある。自然主義とは、あるのは最も基本的な物理世界、つまり物質を構成する素粒子と様々な物理法則だけで、それ以外はすべて実在しない幻想であるという考え方である。自然主義は、我々が椅子と呼んでいる物体は存在しないという。実際に存在するのはそれを構成する粒子と物理法則だけで、椅子という概念は我々が作り出した幻想である、と。これに対して、著者は詩的自然主義(Poetic Naturalism)を提案する。これは、世界は物理法則によって説明できると考える点では自然主義と共通しているが、他の物体や概念も実在するとする点で異なる。詩的自然主義は、詩に様々な解釈があるように、世界には様々な説明の仕方があると考える。もちろん椅子は原子の集合体だという説明の仕方もできるが、人間が座れるように原子が配列した物体を椅子とするというマクロ的な視点からの説明もできる。椅子は実在する。ただそれはもっとも基本的な、ミクロのレベルでの説明ではないだけである。

詩的自然主義は、世界の説明の仕方は階層構造をなすと考える。最もミクロ的、一般的、基本的な世界の説明が、素粒子と物理法則による世界の理解だ。理論上は、すべて素粒子の配列がわかれば、それらが次にどのように動き、何が起こるのかを予測することができる。しかし、すべてをその基本的なレベルで説明するのは実に効率が悪いし、実質不可能である。だから、より高いレベルの、抽象的でマクロ的な説明を導入することが都合がいいのである。この高いレベルの説明は、すべてを完璧に説明することはできないものの、特定の領域においては十分な説得力を持つ。そしてそれらの説明はすべて「現実」であるとする点が、自然主義と異なる点である。

高校物理の知識がある人にとってわかりやすい例は、気体の熱力学の法則であろう。気体には圧力や密度、温度といった概念が存在し、それらの間には状態方程式という関係が成り立つ。しかしそれらの概念は世界の最も基本的な説明には存在しない。気体は当然分子の集合体であるが、分子そのものは温度や圧力といった性質を持たない。ではそのような概念は幻想なのかと問われると、そうではない。気体の状態を説明するときにいちいち一つ一つ分子のレベルにまで戻って考えるのは効率が悪い。だから、分子の集まりを均一なものとしてマクロ的に近似し、その集合体に対して圧力や温度といった性質を定義することで、気体をより単純に説明することができる。理論の精度と一般性は落ちるが、気体という特定の分野においては、その高レベルの理論は十分な威力を発揮する。気体の法則は分子の運動から導出できるが、一度導出してしまえばそれもまた真実なのである。素粒子による宇宙の理解という層が一番下にあり、その上に分子の運動による宇宙の理解があり、その一つ上のレベルに気体の熱力学があるのである。このように階層構造を上っていくにつれ、新しい説明の仕方が出現(emerge)し、それはより抽象的で対象の狭い理論となるが、その特定の分野においてはそれが真実の「一つ」なのである。またはベン図を考えると分かりやすいかもしれない。最も基本的な世界観がすべてを包括するものであり、その中に分子運動論があり、またその中に熱力学がある。熱力学の領域の外側には熱力学の法則を当てはめることができないが、内側ではそれが成り立つ。熱力学の内側の領域には素粒子物理学も分子運動論も当てはめることができるが、熱力学が最も抽象的で効率的な理論であるといえる。


これから詩的自然主義に基づいて、世界の基本的な問いに対して答えを探していこうと思う。次回は、詩的自然主義の階層構造における最も基本的なレベルにある、現代物理学による宇宙観について考えていきたい。