神は存在するか?

神は存在するか?これは人類を先史から悩ませ続けてきた問題だ。

 

俺も一時期、この問いについて深く考えたことがあった。日本では無宗教、無神論者という人は多く、俺もその一人だ。神など存在する証拠はどこにもないし、信じる理由もない。人類が作り上げた全くのナンセンスだ、と考えていた。しかし世界的にみると無神論者というのは少なく、(仏教などの無神論的宗教を除いて)世界でおよそ2%しかいない(日本は31%)(Wikipedia)。アメリカでも俺は無神論者だと友人に言ったら驚かれて、無神論者は初めて見たと言われた。

 

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世界の98%は神の存在を信じる

人はなぜ神を信じるのだろうか。昔は、人類にとって神を信じることは必要不可欠だった。科学が発達していないころは、身の回りの不可解な自然現象を説明するのに神の存在を仮定すると都合がよかった。また人権思想が確立する18世紀ごろまでは、政治権力の正当化にも神は必要だった。

 

それでは現代における神の意義とは何だろう。科学技術が発達し、世界のほとんどすべてのことが理解されるようになった。日本のような国では政治と宗教が分離され、近代的な政治理論の基に国家が建てられた。俺のような無神論者も、何の不自由もなく生活することができる時代になった。神を信じることは義務ではなく、権利となった。

 

しかし神を信じる必要があることと、実際に神が存在することは別の話だ。神を信じる必要はなくなったが、別に存在しないとは言い切れない。逆も然りだ。そこで今日は、できるだけ文化的バイアスを除いて客観的かつ論理的に神の存在について考えてみたい。

 

Wikipediaの「神の存在証明」のページを見てみると、主に4つの議論があることがわかる。それらは、

  1. 目的論的証明
  2. 本体論的証明
  3. 宇宙論的証明
  4. 道徳論的証明

だ。一つ一つ詳しく見ていこうと思う。

 

 

1. 目的論的証明

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宇宙が一つでなければ、神はいらない

世界は美しい。天体は驚くほど規則的に運行し、自然界における食物網、多様性、生命のサイクルは複雑でありながら絶妙なバランスを保っている。動物の体は非常に精巧にできており、効率的な仕組みで生存、繁殖する。このように極めて洗練された宇宙は、人知を遥かに超えた者、つまり神によって設計されたに違いない、と主張するのが目的論的証明だ。インテリジェント・デザインともいう。

 

確かに、自然の複雑さには驚くべきものがある。例えば遺伝子のような精密な情報伝達の手段が人の手を介さず自然に生まれたというのは信じがたいところもある。ところが俺はこの証明には賛成しない。結局宇宙は、ビッグバンで生まれた粒子が物理法則に従って振る舞っているだけだ。自由意志の存在についての問いにもつながってくるのだが、今の宇宙は成り行きに任せたら偶然そうなっただけで、神がデザインしたものでも何でもない。素粒子が集まって原子ができたのは、それが量子力学の法則に従って運動したからであって、神が素粒子をくっつけてつくったからではない。原子は電磁気力や重力などで引き合い星を作った。たまたま適当な原子が結合して生命のもととなる有機化合物ができた。繁殖が可能な生命体ができると、あとは自然選択によって進化し、最終的に人間が生まれた。これらはすべて自動で起こったことであり、外部の意思の介入は存在しない。結局は、あるのは素粒子(もしくは、超弦理論によると、ひも)と物理法則だけで、神が介入できる余地はない、というのが俺の考えだ。

 

ここで、その物理法則は誰が作ったのだ、という問いがあがる。物理定数は人間の存在に適するように精巧に定められていて、例えば万有引力定数が今の値と少しでも違ったら、原子すら存在することはできないという。運動方程式が\(F=ma\)ではなく\(F=ma^2\)だったら、宇宙は全く違うものになっただろう。物理定数や物理法則が知的生命の誕生に適するように絶妙に定められることを、ファインチューニングという。なぜ宇宙はファインチューニングされているように見えるのだろうか。

 

この問いは最先端物理学の未解決問題であるのだが、これに対して俺は「人間原理」を支持する。人間原理とは、今の宇宙が人間に適しているのは、そこに人間がいるから、という考え方だ。もし物理法則が違くて人間が存在しなかったら、そもそもその宇宙は観測されない。要するに、たまたま物理法則が人間に適していたからそこに人間がいてこんなことを考えている、ということだ。こじつけのように聞こえるかもしれないが、宇宙は一つではなく空間的もしくは時間的に無限にあると考えると、これは必然的かもしれない。宇宙が無数にあり、それの一つ一つが違う物理法則を持っているなら、人間に適したパラメータを持つ宇宙が一つくらいはあるはずだ。だから宇宙の物理法則が今のようになっているのは、「そこに人間がいるから」であって、神は必要ない。

 

2. 本体論的証明

可能な存在者の中で最大の存在者の存在を仮定する。最大の存在者は、あらゆる属性を備えている存在である。最大の存在者は、「存在する」という属性も備えているはずである。この最大の存在者が神である。

 

えーと、これは正直意味が分からない。「神はいると思います。だから神はいます」と言っているのにしか俺には聞こえない。可能な存在者が実際に存在するとは限らないし、実在する最大の存在者があらゆる属性を備えているとは限らない。そのような存在者を考えることは可能ではあるが、認識できることと物理的に存在することは全く別の話だろう。どうやら中世では立派な議論だったらしいが、カントに完璧に論破されたので今は信じられていないらしい。次。

 

3. 宇宙論的証明

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現代物理学最大の謎の一つ、虚数時間

すべてのことには原因と結果がある。今俺が神について考えているためには、俺が生まれる必要がある。俺が生まれるには、俺の両親が生まれる必要がある。そもそも人間が存在するためには生命が生まれる必要がある。この因果の鎖をさかのぼっていくと、一つの「すべての始まり」に行きつく。この究極の「原因」に神の存在を求めるのが宇宙論的証明だ。

 

宇宙の前にはまた別の宇宙があって、この連鎖が無限につながっている、という議論もできる。しかしWikipediaには、この無限の宇宙こそ、我々の有限の宇宙を超越する存在であり、神であると書かれていた。さすがにそれは無理がないだろうか?

 

時間が無限だと仮定しなくても、「最初の原因」がある必要はない。地球の表面は有限だが「始まり」とか「終わり」はなく、すべてつながっている。かの天才物理学者スティーブン・ホーキングは、「虚数時間」という概念を導入することで球面のように有限かつ境界のない時間が可能であることを数学的に証明した。理解をはるかに超えているので詳しいことはわからないが、とにかく境界のない閉じた時空は可能で、物理学においては神の存在はもはや必要ないということだ。

 

4. 道徳論的証明

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我々の道徳観は、遺伝子に支配されている

これは「神は存在する」ではなく「神は存在するべきだ」という議論で、証明とは言えないかもしれない。カントは、理性で神の存在を証明することは不可能だが、道徳的な見地から神の存在が「要請」されなければならない、と主張した。良い行いをすれば良い結果がもたらされる、という、道徳で最も基本的な命題が保証されるには、神が存在しなければならないということだ。

 

直接的な議論ではないが、4つの存在証明の中で一番まともなものではないか、と俺は思う。人間を超える存在がいない限り、道徳は存在できず、それはなんとも悲しい世の中だ。これにはかなり考えさせられたが、俺の結論はやはり、神は必要ない、だ。

 

そもそも、「良い行い」というのは何だろう。俺は「良い行い」の定義は「自分にとって良い結果をもたらすもの」であると考える。そして「良い結果」というのは、自らの生存の確率が高まる、または自らの遺伝子が保存される確率が高まることである。詳しく説明させてほしい。

 

人を殺すことは、何があってもいけないことだ。では、なぜいけないか。神がそういうからではない。人を殺すことは、結局自分に害が及ぶからだ。人殺しが躊躇なく行われる社会は、明らかにすぐ崩壊する。だから、社会を安定させるため、人殺しに対しては社会的な制裁が加えられる。これは自分にとって良くない。人殺しは「自分にとって悪い結果をもたらすもの」だから、「悪い行い」なのである。

 

人を愛することは、道徳的に良いことだとされる。なぜか。相手が性的なパートナーであるのなら、自らの遺伝子を次の世代へと受け継ぐことができるから、「良い結果」をもたらす。別にそういうわけでなく友達とか家族とか隣人を愛するという意味であっても、「良い結果」をもたらす。憎しみが絶えない社会では、暴力や戦争が相次ぎ、崩壊につながる。友好的であった方が社会が安定するので、人を愛することを促すよう進化的な圧力が加わる。だから人を愛することは「良い行い」だ。

 

もう一つ例を上げよう。親が子供をかばって死ぬ、というのは、感動的な「良い行い」とされる。人のために死んでしまったら、自分にとって「良い結果」ではないではないか、と思うかもしれない。だが自分の遺伝子に対しては「良い結果」なのである。自分よりも自分の子供のほうがこれから生殖する確率は高いし、そっちの方が遺伝子は広まりやすい。

 

少し冷淡かもしれないが、結局すべての行いは利己的なものであると考える。そして道徳的な行いというのは、長期的に自分に良い結果をもたらす行いである。嫌いな人を殺せばしばらくは幸せになるかもしれないがすぐに制裁を食らう。子供のために死ねば、しばらくは自分の遺伝子が失われることになるが、数十年、数百年というスパンで見れば、自分の遺伝子が生き残っている確率はずっと高い。

 

(この俺の考えは、リチャード・ドーキンス著「利己的な遺伝子」に強い影響を受けている。)

 

だから道徳に神は必要なく、生物学、社会学、心理学などを利用して論理的に構築できるものであると考える。

 

神の道徳論的意味については以下の記事でも考察しているので是非読んでほしい。

 

randomthoughts.hatenablog.com

 


結論

4つの神の存在証明を見てきたが、どの議論も俺は納得できなかった。今のところの俺の結論は、神は存在しない、だ。

 

一つ断っておきたいが、俺は神を信じている人を攻撃するつもりは毛頭ない。むしろ神や宗教を信じることは素晴らしいと思う。神や宗教には道徳的な価値があるし、信じることで幸せになれるというなら、信じない理由はない。ただ俺は論理的に理解できないことは信じられない性格で、今のところ神の存在を信じる合理的な理由がないため、神を信じない。

 

かなり哲学的な話で長く書いてしまったが、考えていてとても興味深い話題だった。あなたは、神がいると思うか?