私たちの住む宇宙③ 生命の奇跡...または必然

このシリーズの前回の記事から時間が経ってしまったが、引き続き私たちが住むこの宇宙の構造についての考察を深めていくことにしよう。前回の記事では、現代の物理学が提供する、最も包括的で基本的な世界観を詳しく見た。宇宙は究極的には波動関数であり、量子力学の法則に従って変化する。世界のすべては、素粒子の相互作用によって説明できる。

しかし、世界の何かを知りたいときに、いちいち素粒子と物理法則の世界という最も低レベルの説明に立ち返るのはとても効率が悪い。なぜ道にリンゴが落ちていたのか知りたいときに、「それは宇宙を構成する素粒子が量子力学の法則に従って振舞ったからだよ」というのは、正しいのだが、意味のある返答とは言えない。我々の日常的な世界では、より高レベルで抽象的な世界の解釈が必要となる。

今回の記事ではより高レベル、マクロで我々の日常的な世界に近い、生命の世界に目を向けたい。生命とは何なのか、そしてそれはどのように生まれたのか?これらの人間の根本的な問いに対して、一つの視点を見出したい。

生命とは何か

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生物とはほかの物質と本質的に異なるものなのか?

生命とは何だろうか?生命とは魂のような何かの物質だと思う人がいる。我々人間が生命を持っていて、石が持っていないのは、我々が何らかの物質、魂を持っていて、それが我々に生命を与えているからだ、と。生命を生命たらしめる本質的な何かが世界に存在して、それが生物と非生物を分けているのだという考えは、昔からあった。

しかしそのような物質は、世界に存在しない。前回の記事で見たように、世界は物理学の法則に支配されており、最も基本的なレベルで存在しうるのは素粒子だけである。魂のような別の基本的な物質が存在することは、物理学に反する。そして物理学は世界を記述する非常に強力な枠組みであるから、それに反しているということはおそらく正しくない。

それでは、生命など存在しないのだろうか?宇宙が全て、生命を持たない素粒子で構成されているのなら、生命は幻想でしかないのだろうか?全ては死んでいるのだろうか?

ここで、詩的自然主義の考え方に立ち返って考えてみよう。第1回で、椅子という概念は物理世界に存在しないが、我々の日常世界には存在するという話をした。「椅子」というのは、素粒子がある特定のパターンのもとに配列した物体に我々がつけたラベルである。世界にあるのは素粒子だけでそれ以外は存在しない幻想であるというのは極端な議論であり、椅子は素粒子という低次の概念がマクロ的に集合して「出現」した概念で、実在するのである。

もう一つ例を挙げよう。水は濡れているが、水分子を構成する水素原子と酸素原子は濡れていない。濡れていないものから濡れているものができるのはあり得ないから、「濡れている」という感覚は幻想であり、実在しないという主張は誤りである。しつこいようだが、「濡れている」というのはある特定のパターンをなす素粒子から出現したマクロな概念で、物理世界には存在しなくても、日常世界には存在する。このように世界には様々なレベルの解釈があり、物理学の解釈には存在しない概念でも、我々の日常的な感覚の解釈には存在することが多々ある。常に、自分が今どのレベルで話をしているのかを意識する必要がある。

本題に戻ろう。生命とは何か。生命は、低次の物理世界から出現した高レベルの概念であり、世界のある特定のパターンに対して我々が便宜上付けたラベルである。それでは生命とは、椅子がそうであるように、素粒子の特定の配列のことを言うのだろうか?生命とはマクロな物体であり、ある特定の形をしているものを生命というのだろうか?そうではなさそうである。DNAや細胞を持っていれば生命というわけではない。死んだ生物はDNAや細胞を持っている。生命とは、動的なプロセスである。個体の中では、様々な臓器、細胞、分子が複雑に絡み合い、影響し合って、生命が保たれている。この一連の相互作用のことを、我々は生命と呼ぶのである。生命を厳密に定義することはできていないが、そもそも生命は抽象的な出現した概念なので、はっきりとした境界線を引くことは難しい。しかしここで知っておくべきことは、生命とは基本的な物質ではなく、ある一連の過程を指す抽象的な概念であるということだ。

生命の複雑性と熱力学第二法則

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無秩序に向かう宇宙と複雑化する生物

生命は非常に複雑であり、秩序だった仕組みで動いている。俺は高校生物を少し勉強したのだが、非常に洗練された生物のからだの仕組みを習ってとても感動した。例えば免疫システムを一つとっても、樹状細胞が侵入者を食べてヘルパーT細胞にその情報を伝え、その情報を基にB細胞とキラーT細胞が侵入者を駆逐するという、とても系統だった連鎖反応によって体内の健康が保持されている。生物について勉強していると、このような洗練された、秩序だった仕組みは、何者かによってデザインされているのではないかと思うことがたまにある。こんな非常によくできた仕組みが、自然に発生したと考えるのは少なくとも直感的ではない。これを神の存在証明とするのが「インテリジェント・デザイン」である。しかし、詩的自然主義は神の存在を認めないし、俺個人としても神はいないと思う。神の存在証明に関しては、以下の記事を参照されたい。

randomthoughts.hatenablog.com

神が作ったのではないならば、生命は自然に生まれたのだろう。それはどのように?生命がどのようにして生まれたのか見ていく前に、複雑性と乱雑さについて話しておかなければならない。

物理学に「熱力学第二法則」という法則がある。熱力学という名前を冠しているが、その内容は非常に一般的な意味を持つ、重要な基本法則である。この法則は、「閉鎖系のエントロピーは必ず増大する」と主張する。エントロピーとは乱雑さのようなもので、曖昧な言葉のように聞こえるが、物理学においては厳密に定義された量である。この法則によると、外部との交流がないシステム(閉鎖系)では、乱雑さは常に増大する。これはどういうことか、コーヒー牛乳を例にしてみてみよう。まずコーヒーと牛乳が混ざらないようにして一つのコップに入れる。このコーヒーと牛乳が分離した状態では、システムのエントロピーは小さい。つまり、秩序だっていて乱雑さが小さい。しかし、このコップを放っておくと、次第にコーヒーと牛乳が混ざり、エントロピーが上昇して系が乱雑になっていく。最終的にはコーヒーと牛乳は完全に混ざり合い、無秩序な平衡状態になる。このとき、エントロピーは最大であり、もっとも分子が乱雑に散らばった状態にある。しかし、混ざり合ったコーヒー牛乳が、また分離してコーヒーと牛乳になるということはない。つまり、エントロピーが減少することはない。これが熱力学第二法則の主張である。

ところで、生命は熱力学第二法則に反しているように見える。生物は非常に洗練されて秩序だった仕組みを持っているが、熱力学第二法則によると宇宙は秩序から無秩序に変化するため、生物のような高い秩序を持つ複雑な物体が自然に現れるのはあり得なさそうである。また、生物は死ぬとすぐに腐ったりして、エントロピーを増してどんどん乱雑になっていくが、生きている間はこのような力から逃れ、秩序を保っている。これも物理法則に反していそうである。この、生命とエントロピーの一見した矛盾は、多くの人々を悩ませてきた。

大きな誤解の一つは、物体は崩壊して乱雑になり、エントロピーが増大するから、複雑な物体が自然にできることはないというものだ。エントロピーは秩序から無秩序の方向に増大するから、生物のような複雑な物体は存在し得ないと考える人がいる。しかしこれは誤りである。エントロピーと複雑性というのは、相反するように見えて実は性質の違う概念である。エントロピーとは単に、系を構成する粒子がとりうる配置の数である。コーヒーと牛乳が分離した状態では、粒子が一定のところに集まっているから、取りうる配置の数は多くなく、エントロピーが小さい。対して完全に混ざり合った状態では、粒子が散らばっていて様々な配置を取ることができるので、エントロピーが大きい。一方、複雑性というのは主観的な概念であり、はっきりとした定義はないが、コーヒーと牛乳が分離した状態も、完全に混ざり合った状態も、複雑さは小さいといえる。はっきり分離している状態も、混ざり合って一様になった状態も、単純に見える。しかし、コーヒーと牛乳が混ざり合う過程で、境界面で複雑な模様が現れる。牛乳の部分とコーヒーの部分が複雑に折り重なり、渦を巻いたり、絡み合ったりして混ざってゆく。このように、複雑性とは、変化の前と後では小さいが変化の途中で大きくなるように見える。分離した単純な状態から、混ざり合って複雑性が増していき、あるところまで来ると混ざりすぎて一様に見えてくるので複雑性が下がってゆく。しかし、この間エントロピーは常に増大している。このように、複雑性とエントロピーは相反する概念ではなく、むしろ複雑性はエントロピー増大の原理によって発展していくものである。

同様に、生命の複雑さも、熱力学第二法則に矛盾しているどころか、むしろそれの上に成り立っているのである。宇宙はビッグバンの時に非常にエントロピーの低い状態で始まったが、この時の複雑さは小さかった。そして宇宙はエントロピーを増しながら時間が経ち、その過程で多様な複雑さが生まれた。宇宙は最終的に、すべてがバラバラになって一様になった複雑性の小さい平衡状態へと向かうのだが、その変化の過程の中にある私たちは、時間を追うごとに複雑化する宇宙を経験している。しかしこの間にも、エントロピーは常に増大しているのである。


もう一つの誤解は、そもそも生物に対して熱力学第二法則が成り立つというものである。生物に対して熱力学第二法則を当てはめることはできない。なぜなら、生物は閉鎖系ではないからである。生物は食べ物を取り入れたり、排せつしたり、光を浴びたり、空気を吸ったりと、外界と様々な相互作用をしている。このように外部と影響し合う系は閉鎖系と言えない。そのような系では、局部的にエントロピーが減少することもあり得るのだ。熱力学第ニ法則はあくまで閉鎖系全体を対象としたものなのである。対して、宇宙は(おそらく)閉鎖系であるから、宇宙全体ではエントロピーは増大している。生物によってエントロピーが局部的に減少しても、他でエントロピーが増大することで、全体ではエントロピー増大の原理が保たれる。このことを、物理学者のシュレーディンガーは「負のエントロピー(ネゲントロピー)を摂取している」と表現した。これはあくまでも表現の問題で、実際に負のエントロピーがあるわけではないのだが、生物の内部でエントロピーの低い状態が保たれ、代わりに外部でエントロピーが増大するということは理解できるだろう。

生命の奇跡...または必然

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生命は偶然か必然か

さて、生命はどのように誕生したのだろうか。まず生物が生まれるためには、生物を構成する有機化合物が必要である。有機化合物とは、炭素を中心とした化学物質の総称で、様々な種類があり、生物のミクロレベルでの部品となっている。どのように原始地球で無機物質から有機物質が生成したのかはまだ詳しいことは分かっておらず、様々な研究がなされているが、有力なのは高エネルギーな海底の熱水噴出孔でいろいろと反応が起こって生成したという説と、地球外の有機化合物が隕石にくっついて地球にやってきたという説だ。


とにかくどうにかして有機物が地球上に誕生したわけだが、それではまだ生物とは程遠い。生物は、次の3つの特徴を持つ:境界、代謝、複製だ。まず内部と外部を分ける境界の存在が生物にとって必要である。境界がなければ、熱力学第二法則に従ってエントロピーが増大するから、エントロピーの低い状態を保つためには当然外部との境界が必要である。また、生命を維持するために体内で様々な反応が起こり、これを代謝という。そして、自らの複製を作り、繁殖していく能力も必要である。これらの特徴を持つ生物は、どのようにして生まれたのだろうか。

境界については、まず原始地球の海中で細胞膜ができたと考えられている。海中に有機化合物である脂質が多く含まれており、それらが多数集まって、二層の膜ができた。脂質には水となじみやすい部分(親水基)と水を嫌う部分(疎水基)があり、疎水基が向かい合い、親水基が外を向くように脂質が並んで二重層を形成することで、海水中で存在しやすくエネルギーの低い状態になった。そしてこの脂質二重層が囲いを作って、原始的な細胞膜ができた。この細胞膜によって、内部と外部が隔てられた構造が誕生し、それが生命につながったと考えられている。

初期の代謝がどのように発生し、どのように行われていたかについても、様々な仮説が競合している状況である。一つの説は、海底の熱水噴出孔で代謝のような反応が始まったという説である。熱水噴出孔では、水素イオン(陽子)が関係する様々な反応が起こり、その中で自らの状態を保とうとする代謝のような反応が起こったのではないかと考えられている。

そして最後に、複製については、RNAワールドという仮説が広く支持されている。RNAワールドとは、最初の複製はDNAではなくRNAによって担われていたとする仮説である。RNAは遺伝情報の伝達や酵素としての性質も備えており、RNAだけで様々なことができるので、最初は遺伝情報の伝達しかできないDNAや、酵素として働くが情報は保持できないタンパク質ではなく、RNAによって情報の複製が行われていたのではないかと考えられている。

これらはすべてあくまでも仮説であり、なにも確かに言えることはない。初期の生命体や当時の地球の状況は詳しくわかっておらず、なにせ40億年も前のことなので、誰も何もわからない。境界、代謝、複製といった特徴がどのように誕生したのかや、これらの要素がどのように集まって生命体が誕生したのかについても、ほとんどわかっていない。しかし、超自然的な力に頼らなくても生命の起源を説明できるモデルが存在することは確かであり、現在も新しくより強力な仮説が次々と提唱されている。ここで重要なことは、生命は神の偉業でも起こりえない奇跡でも何でもなく、世界が物理の基本法則に従って運行した成り行きの結果であり、それは起こるべくして起こった必然であるといえる。よく「生命ができる確率はスクラップが竜巻の中で集まってジェット機ができる確率と同じくらいだ」とかいう議論を耳にするが、これは原子や分子が全くの偶然で集まって生物を作ったときの確率であって、実際には生物ができるまでには十分起こりうる小さなステップを何度も踏んで、次第に複雑な機構へと発達していったのだ。まず細胞膜のような単純な構造が現れ、そして様々な単純な構造が集まって原子生物が誕生した。ここに来るまでに数億年の時間を要したわけだが、数億年も海中で物体が漂い、衝突を繰り返していれば、これくらいのことが起こってもおかしくないわけである。生命はランダムな原子がぶつかり合って現れた奇跡ではなく、原子が物理法則に従って生まれた必然なのだ。

そして世界は次のパラダイムへ―進化論の世界

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進化は私たちをどこに連れていくのか

こうして最初の生命体が誕生した。それは外部との境界を持ち、内部の状態を保つために代謝を行い、そして自らを複製する能力を持つ。ここまで複雑な機構になると、その振る舞いを原子や分子などの最も基本的なレベルから説明するのは適切でなくなる。より複雑な事象を簡潔に説明できる、抽象的で高レベルな近似理論が必要となる。

こうして低レベルの物理、化学理論から出現した新しいパラダイムが「進化論」であり、生命がどのように変遷し、今のような形態になったかを説明するのに非常に役に立つ。チャールズ・ダーウィンによって提唱されたこの理論は、遺伝子の突然変異によって生物の形質に変化が起こり、そしてより良い形質を持った個体が自然選択されるというもので、生物が初期の単純なものから、現在の人のような非常に複雑で高い能力を持つものに進化していったのかを説明できる。

最初は非常に単純な単細胞生物だった生命は、数億年という非常に長い時間をかけて、次第に複雑化していった。自然選択の圧力を受けて、より生存に適した形質が生まれては受け継がれていき、最終的には、数十兆個の細胞によって構成され、非常に秩序だって連動する臓器や筋肉などを持ち、そして高度な思考が可能な大きな脳を持ち合わせた人間が生まれたのだ。これはすべて、全くの偶然で起こったのではなく、世界が科学の法則に従って起こるべくして起こった必然なのだ。もちろん、生物の複雑性には驚嘆すべきものがあり、超自然的な力さえ感じられるが、それは超自然でも神の業でも何でもない。

この進化論に従うと、世界は目的を持って動いているように見える。自然は、より優れた個体を生み出すことを目的とし、環境に適した個体を選択しているように見えるし、生物の方も、生存のために意志を持って自らを改良し、自然に選択されようという目的を持っているように見える。この世界観は、ある意味では正しいし、ある意味では正しくない。宇宙は目的を持ち、世界のすべては目的を持って運動しているというアリストテレス的な世界観は、誤りである。「目的」や「意志」といった概念は、宇宙のもっとも基本的なレベルでは存在しない。宇宙の根底に目的があるというのは誤りである。しかし、生物のレベルになると、目的という概念を用いることが適当になる。目的というのは抽象的な高次の概念であって、生物のように十分複雑な対象に対しては、このような概念を適用できる。椅子という概念は素粒子のレベルには存在しないが、それが一定のパターンで集合すればそれが椅子となりうるのと同じだ。「目的」は世界の基本法則ではないが、生物以上のレベルにおいては、実在する正しい概念である。

ファインチューン宇宙と神の存在証明

最後に考えたいのは、「ファインチューン宇宙」についてである。ファインチューン宇宙とは、宇宙の物理定数が生物の生存に適しているように設定されており、これは生物を目的として宇宙が創造されたことを意味するので、神は実在するという議論である。これも「神は存在するか?」で議論したことだが、ここでも紹介しておきたい。

確かに宇宙の物理定数は人間の生存に驚くべき精度で適しており、もしそれらの値が少しでも違えば、生物どころか原子すら存在できないことが知られている。これは奇跡的な神の仕業のように思うかもしれないが、宇宙が一つでないならば、つまり「多元宇宙論」が正しいならば、当然のこととなる。

多元宇宙論では、宇宙は極めて多いまたは無限にあると考えられている。もしそれらの一つ一つが違う物理定数や物理法則を持っていたとしたら、その膨大な数の宇宙の中で人間の生存に適したものが一つくらいあってもおかしくないはずである。もし宇宙がファインチューンされていなかったら、人間が存在することはない。この対偶をとれば、我々人間が存在するからこそ、宇宙がファインチューンされているのである。この、人間の存在こそがファインチューン宇宙の理由であるという考え方を、「人間原理」という。

もちろん、我々の住む宇宙の外にある宇宙を直接観測することは(少なくとも今の技術では)不可能なので、ただの机上の空論ではないかと思うかもしれないが、現在有力視されている物理理論が、多元宇宙の存在を予言しているのである。それらは、超弦理論とインフレーション理論である。超弦理論は、超ミクロの世界を記述する理論であり、それによると、我々の宇宙は10次元時空に浮かぶ膜のようなものであり、ほかの宇宙も同じ空間に同様に浮かんでいるのである。そしてインフレーション理論は、ビッグバンの直前に宇宙が急速に膨張したという仮説で、その膨張が今も続いており、新しい宇宙が次々と作り出されているという。これらの壮大な世界観は日常生活と大きく乖離しており、我々一般人に理解することは極めて難しいが、その理論は実験結果を高い精度で説明したりすることに成功しており、広く支持されているようだ。

最後に

今回の記事では、詩的自然主義に基づいて生物の世界を探求した。生物の複雑さや秩序は熱力学第二法則に反しているように見えるが、むしろ複雑さはエントロピー増大則があるからこそ発達していることを学んだ。そしてどのように無生物から生物が生まれ、それが人間にまで進化したのかというプロセスも、科学的な知見から考えた。生物の存在と神の存在は結びつけられることが多いが、生物の存在はすべて科学的に説明されているもしくはこれからされるものであり、神の存在を要求する必要はないということも学んだ。

おそらくこのシリーズの最後になる次回は、生物よりさらに高次の存在、人間の思考や意識、自由意志、道徳などに目を向けたい。意識とはほかの物体と本質的に違うものなのだろうか?物理法則から、倫理学の命題は導けるのだろうか?人間の本質的な問いに対する解決の糸口を見いだしたい。