中3の夏休み最後の日。俺は塾から帰ってくるとすぐに、弟に「アメリカに行くぞ」と言われた。こいつは何を言っているんだ、夏休みは今日で終わりなのに旅行にでも行くのか。しかしどうやら違うらしい。親から話を聞いて、次の年に父親の転勤でアメリカに引っ越すことを知った。
こうして俺は異国・アメリカに住むことになった。
その夏休み、俺は将来についていろいろと考えていて、この職業に就きたいからこの大学に行きたい、そのためにはこの高校に行きたい…と人生の計画を立てた。そして夢に向かって、高校の受験勉強を本格的に始めようと思った時だった。自分の完璧なる人生計画が一瞬にして崩れ、一週間くらいショックで何も考えられなくなった。
今だと笑い話だが、当時は本気でその計画通りに行けば成功できると考えていたので、本当に何をすればいいのかわからなくなった。
何よりも不安だった。ただの転校とはわけが違う。東京より南に行ったことのない自分にとって、いきなり外国に飛び込んで、知らない言葉をしゃべって、肌が黄色くない人種と一緒に勉強するなんていうのは、想像することすらできなかった。何よりも英語が不安だった。英語の成績は良かったが、ネイティブの英語なんて聞き取れないし、まともに自己紹介もできないのに、どうしろというのだ。
でもしばらくしたら謎の自信が出てきた。まあアメリカ住めば英語ペラペラっしょ?そしたら人生勝ち組じゃん。最近グローバル化とかで英語の需要あるし。なんかアメリカすごそうだし。
一人で日本に残るという選択肢もあったが、少し面白そうだったので家族についていくことにした。
まずアメリカについて知らなければと思い、アメリカの50州とその州都をすべて暗記した。絶対他にもっとすべきことがあったと思うが、当時の俺はそれが大事なことだと思ったらしい(結局この知識はかなり役に立ったので良かったが)。
その後受験を経て日本の高校に3か月ほど通い、高1の夏に生まれて初めて乗る飛行機でアメリカへと飛んだ。
それからは衝撃の連続だった。当たり前だけど何もかも英語で意味がわからない。高速道路が無料。牛乳のボトルが異常にでかい。不健康そうな緑とか青のカップケーキがたくさん売っている。庭にリスとウサギが住んでいる。生活の何もかもが新鮮で見たことのないものばかり。不安はあったが、期待もあった。毎日新しい発見がありわくわくした。
そんななか学校が始まった。思ったこと3つ:
- 授業終わりのベルが警報みたいでうるさいしめっちゃびっくりする。
- 日本人が多い。ホンダの工場が近くにあるので、俺の父親のようにホンダ関連の会社に勤める人の家族が多く住んでいる。みんなフレンドリーで優しいから助けてくれるし英語がわからなくても何とかなる。
- まじで英語がわからない。先生が何を言っているかわからないし、自分が何か言っても全く通じない。つらい。アメリカに来たからにはペラペラになるつもりで頑張って人に話しかけたり授業に集中したりしたが、全くコミュニケーションが取れない。
最初の数か月は本当につらかった。でもどんどん新しい発見があってそれは楽しかったし、日本人の友達はできたから寂しい思いはあまりなかった。英語は相変わらずわからなかったが、努力は続けた。昔から成績優秀と周りから評価されていたから、そのプライドが自分を進ませ続けたのだと思う。負けを認めるのが悔しかったのだ。
半年くらいたつと、英語が結構わかるようになってきた。授業で先生が言っていることがだんだん理解できるようになったし、読む速さも速くなった。話すことはすごく苦手だったが、友達ができ始めた。日々成長を感じるのが楽しかった。
部活にも入った。運動部の中で唯一トライアウト(入部試験)がなかった陸上部に入ってみた。中学は卓球部だったがこっちには卓球部がなく、他のスポーツは全くできなかったので、陸上しかできるものがなかった。3キロもまともに走ったことがなかったが、最初の練習で3マイル(5キロくらい)走れと言われて死にそうになりながら走ったのを覚えている。練習はきつかったが、英語を話す機会も増え、体力もつき、一石二鳥。
そして日本人の友達の存在は本当に支えになった。何人か親しい友達ができ、よく遊んだ。日本にいた時も親しい友達は何人かいたが、基本陰キャだったのであまり遊びに行くのは多くなかった。学校でつらいことがあっても、楽しく遊ぶと忘れられるので、心理的にとても助かった。毎週土曜日の日本語補習校の存在も大きかった。
こんな感じでアメリカでの最初の1年は過ぎた。それまでの人生で一番クレイジーだった1年だったことは間違いない。たくさんの新しい経験をし、多くを学んだ。色々大変だったけど、達成感はあったし、楽しいこともたくさんあった。2年目以降は次回のお楽しみ。