すべてがFになる ―現実とは、天才とは、死とは

森博嗣作「すべてがFになる」を読んだ。犯人が誰かとか真相の重要な部分は言わないが、多少のネタバレあり。

まずこの本の感想を述べてから、この本で提示されている問いについて自分なりに考えてみたいと思う。

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

  • 作者:森 博嗣
  • 発売日: 1998/12/11
  • メディア: 文庫

感想

実はこの本は4、5年前、中学生だった時に読んだことがある。学校の図書館で、題名と表紙にひかれて手にしたのを覚えている。当時はコンピューターの詳しい話はあまり理解できなかったが、この本は一番好きな推理小説になった。

今回は、たまたま書店で目にして、久しぶりに読んでみるかと思い買った。割と分厚い本だが、面白いので一気に3日くらいで読破した。

この本の何がいいかっていうと、まず一つは、個人的な話になるが、俺は頭のいいキャラクターが好きなのだ。どんな話でも、一番頭のいいキャラクターを応援したくなる。ナルトではシカマルが一番好きだ。そしてこの本では、登場人物がみなめちゃくちゃ頭がいい。犀川は国立大の助教授でめちゃくちゃ頭がいいし、萌絵は計算がめちゃくちゃ速い。そして何より、真賀田四季の頭の良さが超人的すぎる。小さいときに2桁の掛け算と3乗根の計算が一瞬で暗算でき(掛け算はともかく、3乗根の暗算て頭おかしくね?)、11歳でアメリカの大学でPh. D.を取得するという神レベルの天才。さすがに真賀田四季は設定がバグってると思うが、こんなに頭のいい人たちが出てくる小説が、面白くないわけがない。

そして次に、これも個人的な話だが、コンピューターの話が多く出てくるのが好きだ。UNIXがどうとか、スクリプトがなんだとか、unsigned shortがどうしたとかいう話は、最初に読んだときな何のことかよくわからなかったのだが、コンピューターについていろいろ知った今読むと、作者はよくこんなことを思いつくなあと感心する。しかし思うのだが、時間を扱う変数が2バイトってありえなくないか?今回使われていた変数は時間(hour)を数えているものだからそれほどの容量はいらないが、それでも2バイトは少なすぎると思う。最初に気づかないのだろうか?そもそもOSのソースなんて読まないんだろうか?所定の時間がたつ前にバージョン5がつくられる予定だったから気にしないんだろうか?まあいい。

そして最後に、様々な書評で言われていることだが、この本はとても理系なのだ。登場する専門知識が理系であるというのももちろんあるが、真相へのたどり着き方がとても理系な感じがする。というのも、犀川は論理的な推論だけで真相にたどり着くのだ。殺人の動機とか、四季を取り巻く人間関係とか、感情論とか、常識的な行動とかといった余計な要素を一切省いて、与えられた情報から科学的に可能な殺人計画を導き出す。まるで、数学の証明を読んでいるかのようだった。この本に人間的な描写が全くないわけではない。むしろ犀川と萌絵とのやりとりには、とても人間らしいものを感じることができる。それでいて、事件の推理の過程に人間ドラマは一切なく、背景とか動機とかも省いて、一見不可能な完全密室の殺人の謎に対して科学的な仮説を打ち出す。謎が明かされるとき、その論理の正しさに感服するし、謎が解ける爽快感は、ほかの推理小説と比べ物にならない。

と、このように非常に面白い読み物であった。エンターテインメントとして非常に優れているが、途中でいくつも読者に対して哲学的な命題が提示されるのもおもしろい。そのうちのいくつかについて考えてみたい。

考察

まずは、「現実」について。現実とは何か。VRは現実か。

作中では、VRも現実であるというような発言が犀川と真賀田四季がしている。仮想世界が一定数の人間に共有されているならば、それは現実といっていいと思う。VRで人に会ったり、仕事をしたりといったことができるようになれば、VRも立派な現実となりうると思う。現実が物理的でなければならないと誰が言った?

じゃあそもそも現実とは何か?まず俺なりに「現実」の定義について考えてみたい。まず思いつくのは、「すべての人に共有されている、客観的な世界」ということ。しかしこれにはかなり穴がある。「すべての人」というのには無理がある。例えば自分の世界に閉じこもっている狂人は、我々が経験している「現実」とは違う「現実」を経験しているはずだ。じゃあ「すべての正常な人」とするか?それでは「正常」を定義する必要がある。もしかしたら、我々が狂人だと思っている人が実は正常で、我々自身が狂人なのかもしれない。じゃあ「過半数の人」とするか?それでは過半数の人類が狂ったらどうするのか。それにそもそも、我々「正常」な人間が見ている現実がみな同じものだと、どうやってわかるのか。客観性をどうやって調べるのか。

じゃあ現実とは主観的なものなのか?それはそれでいろいろと問題がある気がする。夢は現実か?

萌絵の「現実とは何か」という問いに対する、犀川の答えを引用する。

現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ。普段はそんなものは存在しない。

それはチートだろ!と思うが、確かに的を射ているような気もする。そもそも現実とは何か考えることに、何か意味があるのだろうか。俺が今経験している世界は、おそらく多くの人に共有されている現実だと思う。俺の書いたこの記事は、ほかの人と共有されている。しかし、この世界が俺だけが見ているものではないという保証がどこにあるだろうか。究極的には、俺が見ている現実はすべて俺の夢かもしれないし、あるいは俺は脳に電極を埋め込まれて感覚を刺激されているだけで、本当は檻の中に飼われているのかもしれない。自分が現実だと思っているものが本当の現実であると知ることは絶対にできないし、それならば現実について考える意味はどこにもない。現実は幻想なのかもしれない。現実が存在しないわけではなく、そもそもその概念自体が幻想なのである。


次に、「天才」について考える。犀川は、「人間は誰もが最初は天才で、だんだん凡人になる。真賀田四季のような人は、もっとも純粋な人間だと思う」というようなことを言う。

人間は生まれた時、生物的にプログラムされたOS以外には、何も入っていない。だから多分、思考の柔軟さとかは子どもの時が最高なんだろう。買いたて新品のラップトップがすいすい動くのと同じように。でも最初はまともなソフトウェアが全然入っていないので、特に有益な情報処理はできない。成長するにつれて、いろいろなことを学んで、いろんなことができるようになってくる。難しい文章を理解したり、複雑な計算をしたりできるようになる。一見頭がよくなっているように見えるけど、それはいろいろなことを記憶し、ソフトウェアがアップデートされているだけだ。純粋な情報処理能力とか思考の柔軟性とかの、脳のCPUとしての能力は、10代でピークを迎えるらしい。常識とか人間関係とかいろいろな余計なことにとらわれて、バックグラウンドプロセスが増え、ストレージが埋まっていくにつれ、天才的な思考というのはどんどん難しくなっていくんだろう。

人間は、どんどん常識を覚えこまさせられているうちに、頭が悪くなっていく。常識に汚されていない真賀田四季は、生まれた時の天才さをそのまま持ち続けている、純粋な人ということなのだろう。

確かに俺も、最近頭が悪くなっている気がする。中3のときは、俺は天才だった。今考えると驚異的な学習能力だとか思考力を持っていた。でもその時は社会性のかけらもないようなやつだった。今も大してないけど、ここ数年で常識を覚え、すこしは常識的な人づきあいができるようになってきた。でも、もう天才じゃなくなった。知識は増え、能力は高まったが、思考力は確実に低下している。

じゃあ常識はいけないことなのだろうか?そうではないと思う。円滑なコミュニケーションをとるうえで常識は必要だし、そっちの方が楽しい。しかし、その楽しさは低俗なものではないだろうか?常識的で人並みの思考しかできないが友達がたくさんいるのと、例えば社会性はないけど深淵なる数学の世界に使っているのと、どっちが楽しいか?どっちが高尚か?

理想はどっちも楽しめることだが、結局自分の好きなバランスを選べばいいんだと思う。そもそも頭の良さで人の価値が決まるわけではないので、好きにすればいいんじゃないか。悔しいが、この結論はあまりにも常識的で、人並みの思考なんだな。俺は多分、何年かかっても真賀田四季にはなれないんだと思う。


最後に「死」について考えようと思ったが、書いてみたらめちゃくちゃ長くなったしめちゃくちゃ重い話になったので、別の記事にする。

randomthoughts.hatenablog.com



とにかく、この本はめちゃくちゃ面白い!コンピューターの知識がなくても十分楽しめる(実際俺は知識がない時に読んでめちゃくちゃおもしろいと思った)ので、文理関わらずオススメ!

あとアニメもある。これもおもしろかったが、俺は本の方が好きだった。