宗教、道徳、そして非現実的な存在

以前書いた記事「神は存在するか?」に関連するテーマ、宗教について書く。

randomthoughts.hatenablog.com

 

アメリカに住む前は、俺にとって宗教とは遠い存在だった。身の回りで宗教を信仰している人はほとんどおらず、むしろ宗教は危ないものという先入観を持っていた。仏教や神道という日本で大きな宗教はあるが、これらはどちらかというと文化に近いと感じる。初詣で神社に行ったり、葬式はお寺でやったりと、日本人の生活に欠かせない面はあるが、日頃から神や仏を祀りお経を唱えているという人は少ない。俺は、多くの日本人のように、無宗教、無神論者だ。

 

アメリカでは事は大きく違う。全く宗教を信仰していないという人の方が珍しい。宗教の種類も様々で、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ヒンドゥー教など、多様な宗教が混在している。キリスト教徒は日曜日に教会に行き、イスラム教徒は断食し(いつもじゃないよ)、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べない(完全にベジタリアンの人もいる)。アメリカでいろんな人と出会った後、日本はかなり異常な国だな、と思った。

 

しかし、宗教は信じるべきものなのだろうか。

 

ある日、友人とランチを共にしていると、話題が神の存在や宗教に移った。彼は敬虔なキリスト教徒で、日頃から聖書を読み、様々な教会の活動に参加している。俺が無神論者であることを知った彼は、「Can Man Live Without God」(神なしで生きることはできるか?)という本を貸してくれた。

 

Can Man Live Without God

Can Man Live Without God

 

 

この本の著者はキリスト教徒で、これは要するに無神論者たちを論破しキリスト教を正当化しようという本だ。最初はすごく批判された気がしてむかついたが、読み進めるにつれ、彼の主張にも一理あると思うようになった。

 

著者が指摘する無神論の問題点は、神、または一定の道徳観がなければ、あらゆることが正当化されてしまうということだ。宗教なしでは殺人すら正当化されてしまう。ナチスは、ユダヤ人を虐殺してドイツから異教徒を排除するとして、ホロコーストを正当化した。著者はすべての無神論者が非倫理的と言っているわけではないが、非倫理的なことの正当化が可能であることが問題だと主張する。これは、「神は存在するか?」で紹介した「道徳論的証明」に通じるところがある。

 

「神は存在するか?」で、道徳的な行いとは「長期的に自らの遺伝子に良い影響を及ぼす行い」であると述べた。ナチスは結局第二次世界大戦に敗北した。ホロコーストが直接の原因とはいえないが、世界中の人々の怒りを買ったのは確かだ。だから大虐殺の結果は自分たちに返ってきたので、それは非道徳的な行いであったといえる。しかし、人間はいつも将来を見据えて理性的な判断を下せるわけではない。それに、非道徳的な行いをやってはいけないと強制するものは宗教しかない。だから、宗教を持たないことは、誤った判断によって取り返しのつかない間違いをするリスクを持つ。

 

そこで著者は、道徳的に生きるには、宗教などの倫理システムをもつことが必要だと述べる。そして、その倫理システムは客観的である必要がある。主観的な道徳観が許されるのであれば、殺人は良いことと自分で決めればそれは良いことになってしまう。キリスト教や仏教などの大きな宗教は、多くの人に長い間信じられてきたという点でかなり客観的である。

 

それに宗教は、道徳的な行いを促すだけでなく、人生の意味、幸せや苦しみ、生や死についての問いにも答えを提供できる。科学は、人生に意味はなく、すべては素粒子の相互作用だという。幸せや苦しみを感じるのは脳でいろいろ化学反応が起きるから。生まれるのは精子と卵子が出会ったから。死ぬのは代謝を維持できなくなったから。意味は特にない。でもそれではつまらない。意味のある人生を送りたいとはだれもが思うことだ。そこで宗教が答えを提供することで、人々の生活に充実感をもたらすことができる。

 

宗教にはいろいろいい面があることが分かったので、キリスト教徒になろうかなと本気で思った。しかし、以前も書いたように、どうしても神が信じられない。イエスは処女マリアから生まれたとか、病気を治すとか死後よみがえるとかという奇跡の類も全く信じられない。聖書はただのフィクションだとしか思えないのだ。

 

しかし、小説がフィクションだからといってそれを信じろと言っているわけではない。架空の物語を通して、著者がメッセージを読者に伝える、それがフィクション小説のはずだ。だから聖書も、架空の話から様々な道徳的教訓を伝えるフィクションではないかと思った。これなら、神を信じなくても、キリスト教を実践することができるのではないか。

 

しかし、これを友人に伝えると、「それはできない。ある世界観の一部だけを取り除いて、好きなところだけを信じることはいけない。キリスト教徒は聖書に書いてあることを歴史的事実として信じなければならない」といわれた。確かに、キリスト教の道徳観は神の存在が前提であるし、世界観を都合のいいように切り抜くなんて勝手なことをしてはいけない。

 

このためキリスト教徒になることはあきらめた。ではほかの宗教はどうだろう。仏教や儒教は無神教であるから、神を信じなくても受け入れることができる。それにどちらも日本で根強い宗教だ。色々調べてみた結果、仏教の教えが自分に一番しっくりきた。そもそもブッダが人間だったとは知らなかったのだが、ブッダが瞑想しているときに悟ったことが仏教の教えのもととなっている。仏教によると、人生は苦しみで満ちていて、悟りを開くことによってその苦しみのサイクルから抜け出すことができる。少し悲しいけど、納得できる面もあるし、仏教の独特な無限と無の世界観が自分に合ってると感じた。

 

しかしここで問題が生じた。仏教もかなり現実離れしているのだ!まず輪廻転生が本当かは甚だ疑問だが、それを除いてもかなり疑問があるところがある。なんか変な想像上の動物たくさん出てくるし。

 

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5億人が信仰する世界宗教、仏教

Secular Buddhism(世俗仏教って訳すのかな?)っていう仏教から非現実的な要素を取り除いたものもあるらしいが、そんなことをしていいのかはわからない。これも都合よく世界観を切り取ったものではないのか?でも仏教に少し興味がわいた。

こんな感じでいろいろ考えたが、結局今も無宗教、無神論者のままだ。しかし、宗教に対しての考え方が大きく変わったのは事実だ。いままで宗教は迷信で危ないものという考えが強かった。オウム真理教とかのカルトともつながって、悪いイメージしかなかった。しかし、こうして宗教についていろいろ調べていくにつれ、宗教は非常に良いものであると気付いた。宗教は我々に道徳を教えてくれるし、人生における難問に一つの答えを与えてくれる。

 

しかし、宗教には悪い面もある。ほかの宗教との間で価値観の衝突が起こると、人々は急に心を閉じ、ときには戦争につながる。十字軍がそうであった。それに、宗教は解釈を間違えると、イスラム過激派みたいなテロリストも生まれる。

 

だから、宗教の良い面、悪い面を理解して、オープンな会話を続けていくことが大事だと思う。